今日の学び コミュ力がない~~
「コミュ力がない」から見る人間の関係性の2側面
0はじめに
最近、「コミュ力がない」っていう意味がぼんやりわかりました。
いや、どっちかというと、「意味が判然としない」理由がわかりました。
つまり、他者との関係性との構築の仕方、あるいは相手からの受け取り方を解釈には、二つの側面があると思いました。
それは
- 正解前提型的コミュ二ケーション
- 流動的コミュケーション
です。
まあ要するに、その2側面はコミュニケーションに「普遍的な正解があると考えるか」どうかの違いです。
自分は後者で、基本的に「コミュ力がない」は前者のスタンスで捉えられる言葉だ、ということがわかったわけです。
もうちょいそれぞれを詳しく見ます。
1正解前提型的コミュの場合
これは「正解があるというスタンス」でコミュニケーションを理解するスタンスです。
つまり、そこで大きな問題になるのは、
・私(私たち)にとって、その正解はなんなのか?
・どうやって、正解に(最短で)たどりつけばいいのか?
です。
つまり、先に相手との関係性が友達・恋人・仕事仲間という程度の抽象度、またあるいは、より先鋭化されて目的(仕事の不満を聞いてもらうとか)によってすでに想定されています。
この場合での、コミュ力のなさはその正解、あるいは正しい方法、正しい媒体との乖離をいうようです。
2流動的コミュケーション
この場合は、関係性に正解がある、つまり、あらかじめ措定された理念・方法・媒体などがありません。
つまり、問題となるのが
・この他者とどんな関係性が起こるのか、起こりうるのか、その効果とは?
です。
(ここから派生して
「そもそも、『関係性』はあるのか、あるならどんな形態なのか」
みたいなこともありそうですが、この場合は、議論の前提を疑ってるので除きます。)
まあ、要するに、想定されるべき関係性そのものを、その都度「再構築」するかんじです。
1の場合だと、その作業は「更新」というイメージになりそうですね。
3おまけ
ああ、書いてて、媒体・環境まで「再構築」する発想はなかったって気づきました。
おわり。