趣味思考 東京と広告トラックと京都
「自分が今何について考えているか」についてのログを書いています。 今回は、東京で見た広告トラックから考えたことです。
目次
- 東京、広告トラック
- 翻って京都
- 秩序化された欲望はどうなるのか?
1 東京、広告トラック
久しぶりに東京に行きました。
そこで、品のない広告トラックをみました。たしか、キャバ嬢の募集だったかな。
このトラックの存在の良いか悪いかはさておき、次のことを思いました。
「最初にこれ考えて実現したやつ、すげえよな」と。
広告の目的のひとつに、できるだけ多くの人々にメッセージを届けるというものがあります。
この場合、メッセージは商品、イベントの存在であったり、求人であったりします。
そして、この目的を実現するうえでは、このトラック広告という方法はとても理にかなっていそうです。
なぜなら、トラックという強大な物体に、爆音と派手なlEDを装備して移動させる、
これは多くの人に、積極的にかつ、印象に残る方法でしょう。
まず、この発想を思いついたということに「凄さ」を感じます。
そして、もう一点。
倫理的に反感を買いそうなことが予想できるのに、実行できるという点です。
実行できる、ということはそれなりに何かモチベーションを支えるものがありそうですが、なんなのでしょうか。
- お金が多く入る
- この体験が楽しい
この二つが要因となっていそうです。
ただ、前者の要素が強いであろうという推測のもと、広告は経済的欲望を露わにしているという見立てをとります。
広告に対するなんとなくの「嫌悪感」はここからくるのではないでしょうか。
2 翻って京都
さて、翻って、今住んでいる京都を思い出すと、そんなものは全くみません。
なぜでしょうか。
それなりに、人間は住んでいるはずです。
そんなことを考えていると、京都は景観の規制が非常に厳しいことを思い出しました。
そう考えると、この条例に引っかかるのかどうかは定かではないですが、広告トラックが走ることは難しそうです。
現在とても住みやすいので、今後もこの条例のままでいてほしいのですが、ふと、あることに気付きました。
よくよく考えたら、実は経済活動が規制されている、もっと広げてみれば、人間の活動が制限されている状態にあるということです。
この事実に全く気付かずに(意識することなしに)生活していたというのは、驚きです。
3 秩序化された欲望はどうなるのか?
さて、1,2の体験・考察からでた僕の疑問はこうです。
広告の制限によって、いきばを失った経済的欲望はどうなるのか?
これは京都という場所に限った話としてではなく、より抽象的な問いとして捉えます。
そのために、下のような場合は考慮にいれません。
- ここでは、欲望は行き場を失うほどたまりきっていない、あるいはたまらない
- 欲望があふれかえっている東京がむしろ特殊ということ
さて、この問いには2つの答え方があると思います。
- 経済的欲望がその形態を保ったまま別の場所であふれかえっている。
- 経済的欲望がその形態を変形してしまって別の「何か」になっている。
そして、この問いに答えるためには、下の問いに補助的に答えなければならないでしょう。
そもそも、経済的欲望とはなんなのか?
金銭そのものには価値はないため、「何か」の価値を代替していると考えられます。
ぱっと、おもいつくのは権力ですけど、そう単純ではないでしょうね…。
まあ、自分の問いがクリアになってきたので、今日はこのへんで。 また、時間があれば掘り下げたい。